2008年11月16日(日)

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8

祈りにおいて、言葉数の多さで聞かれるのではない事を言っている。祈りとは、
神がご存じないから、延々と状況を一から十まで知らせるという事ではない。

又、それなら、神がもうご存じであれば、祈る必要ないではないかと言う事では
ない。すでに何もかもご存じでいて下さるからこそ、安心して安堵して祈る事が
できる。

なぜなら、私たちは、様々な非常な困難な状況に陥った時も、本当には自分に何
が必要なのか、何を求めたらよいのか、わかってはいないものだ。ましてや他人
の必要などわからない。的はずれに求めているような者だ。

しかし、的確に、完璧に、私たちの必要をご存じである方に、祈っているならど
うだろう。自分の祈りは足らないものであり、的はずれなものかも知れないが、
つたない祈りが聞き入れられ、祈りが助けられているとの安心感、平安が臨むの
ではないか。

祈りは、祈りの実践の中でしか学べない。机上の理屈は通用しない。祈って行く
中で、御霊に、動機が探られ、気づかなかった罪が示され、悔い改めが与えられ、
的はずれな祈りが軌道修正されて行く。

祈りの中で、祈りが導かれて行く。経験した事だろう。必要をすべてご存じの御
父に子供が「お父ちゃん」と行くごとく、心を打ち明けて行こう。御父は喜んで
受け止めて下さる。
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つたない、的はずれの祈りをご存じだ。祈る先に、御父はすべての必要をご存じ
だからこそ、祈れる。本当には必要をわかっていない、未熟な祈りだ。御父はそ
れもご存じで、祈りを助け導いて下さる。何と嬉しい事だろう。祈って行こう。