2008年12月17日(水) 「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」Tサムエル4:3
「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」Tサムエル4:3
イスラエルの民は、主の契約の箱さえあれば、主はご自身の契約を果 たされるのだから、自分たちは敵から守られると考えた。 自分たちが契約に対して、全く真実でなかったとしても、契約の箱が ある限り、大丈夫だと思った。しかし、そうではなかった。 神は民が偶像礼拝し、神から離れて行く時、彼らが敵に打ち負かされる に任せられた。彼らは、御名のために、ご自身の栄光のために、神は自分 たちを救って下さるはずだと思った。 自分たちが負けるなら、神の御名が立たない、だから助かるはずだと高を くくっていた。しかし、神は罪をあいまいにされたり、ごまかしたりされ る事は決してない。 何よりも聖なる方だ。民は敵に打ち負かされ、天幕に逃げ帰り、疫病で歩 兵三万人が倒れ、契約の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハス は死んだ。見事な敗北だ。 都合が悪い事はふたをし、敵に知られないように、おおい隠されるのではない。 人間は勘違いをする。不祥事は証しに悪いと、とにかく隠し、ひたすら隠す。 しかし敵の前で、民が敗北する事によって、神の聖さを現される。神は聖い方だ。 キリストとベリアルはいっさい関係無く、光と闇も何の関係も無い。 おおい隠す事によってでなく、敗北によってそれを明らかにされる。聖なる方だ。 ------------------------------ 真実のない形ばかり、自分の都合ばかりでは、神様の栄光を拝することは出来ない。 示される事は感謝だ。真実な信仰を今日も献げて歩んでいこう。