2009年01月16日(金)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3



何か問題が起こる時、必ず「なぜ?」という問いが心に湧き上がる。
登校拒否や、出社拒否や、様々な問題に出会す時、答えを見つけたい、理由を探し出したい思いに駆られる。

理由捜しに必死になる。「なぜ?」「どうして?」誰しも無意識に自分は傷つきたくない、だから、自分以外のところに原因を捜し出そうとしてしまう。

そうすると、誰かのせいになってしまう。そして犯人探しをする。
弟子たちも盲目の人を見て、犯人探しをした。「この人が盲目なのは、この人が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。

しかし、主は「誰のせいでもない。神の栄光が現れるため」と言われた。
私たちが人生で出会う苦しみが、すべて理屈で通り、理屈で解明できるのなら、それは人間の範囲内、人間の次元内で、人が神の上に立ち、神を動かす人生でしかない。

しかし、全主権は神にあり、人生で、「どうしてこんな事が」「なぜこんな事態に」と思うような、不意の突如の苦しみを経験する。

苦しく辛い、わけのわからない所も通る。しかし、あれが悪い、これが悪い、誰が、かれがと、犯人探しをし、責め、非難するのでなく、神の素晴らしさを知るためとの信仰に立とう。

どんな苦しみ痛みも、必ず万事益とされ、その事で神ご自身を更に深く知り、神のご愛を知ることになる。
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困難や問題の意味はわからなくても、神様に目が向いている限りそれが神様発だと悟れる。神様が関与しておられるから自分や人を責めず、神様の栄光の現われを忍耐して待とう。