2009年03月16日(月)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4:4

「主を」おのれの喜びとせよ、とある。「主が下さるもの」ではない。「主が下
さる祝福や恵み」ではない。

主が下さるものを喜びとしているなら、自分の願いが叶えられなかったなら、必
ず不平不満を持つ。与えてくれない主を責めて、鬱屈する。自分の願いがすべて
だ。

しかし、与え主なる主ご自身を求めているなら、もし願いが叶えられなくても、
落胆はない。自分の願ったものから喜びが来るのでなく、主ご自身から喜びが来
るからだ。
願ったものが与えられたから、喜ぶのでなく、ご自身を喜ぶ事を学んで行く。

10人のらい病人は、9人はらい病が癒された事に、歓喜して世に帰ってしまっ
た。私達も自分の願うものが欲しいばかりで、与え主が眼中にないなら危険だ。

それなら願い事さえ叶えてくれれば、誰でもよい事になる。ある婦人が子供が欲
しくて、それは強烈な願望で、どうあっても絶対に欲しいと思った時に、気づか
された。

願望が余りに強烈になる時、見えなくなり、与えてさえくれれば、誰でもよいと
まで進んで行く事に愕然とした。恵みを何が何でも、もぎ取ろうとしている恐ろ
しい自分に気づいた。
涙が溢れ心から悔い改めて明け渡した。心すっきりし、御心でなければ、もうよ
いと心から思えた。心の隅々まで全き平安になり、執着無くなり、主が喜びとな
った。その後、子供が与えられたのだった。与えられたもの以上に、主に、心か
ら感謝した。   
・・・・・・・・・・・・・・・・
一つ間違えると、神を自分の欲望充足手段に利用してしまう。悲しい。主を喜び
としようと、心を向けて行くので、主のお心がわかり、御心にそって求めること
ができ、その祈りは答えられる。「願い事」ばかりでなく、今日は「与え主」に
心を向けてみよう。