2009年07月16日(木)

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」マタイ21:26



ゼベタイの子達、ヤコブとヨハネの母が、彼らと共に主にひれ伏して願った。主が王になった時には、自分の子達を右大臣と左大臣にして欲しいと。そしてこの事を聞いた他の十人は、この二人の兄弟の事で腹を立てた。

結局、思いは同じであり、先を越された事に怒ったのだ。弟子達の間では、互いの間に比較と競争が常にあり、関心の的は誰が一番かという事だった。そして皆が思っていた。自分が一番だと。

この自己中心こそが、主を見えなくさせ、御心を見えなくしてしまう。自分の価値観、自己中心のフィルターでしか、物事が見えないため、神の心がわからない。

主がこれから十字架にかかると告げられた、まさに「その時」の出来事だった。何と的はずれな事だろう。自分の事しか無い。しかし、私たちもどうだろう。
祈りが答えられない時、自分の願ったものでない時、反抗と不満で一杯だろうか。

結局、神すら利用して、都合の良いように叶えてもらい、自分の思い通りに生きたいという自分。人に勝ちたい、上でありたい、支配したいという欲望とプライド。

これが神の心を見えなくする。主の答えはどうか。仕える者になりなさい。自己に死なない限り、人に仕える事は出来ない。肉は、人になど決して仕えたくない。
誰にも邪魔されず、自分の好きなように生きたい。

そのような自分の姿を認め、主に明け渡して行く時、主が仕える者に変えて下さる。これは奇跡であり、神のみわざだ。
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誰にも邪魔されず、好きにやっている時は快適で、自己中心であることすら気づかない。仕えなければならなくなって初めて自分の肉の強さに気づく。人に仕えられる者は哀れだ。
少しでも、仕える者になれるよう祈っていこう。