2010年10月16日(土)

「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Uコリント12:9



ある人が神学校を卒業して、若くして牧師になった。志に燃えて、田舎の小さな
教会へと赴任した。それからの歩みは、全く思うように行かなかった。こんなは
ずでは無かった。働きは思いように進まず、数年で宣教活動に挫折した。

小さな群れを牧会する事ができない。問題に次ぐ問題で、更に問題は悪化の一途
をたどり、満々であった自信は見事に打ち砕かれた。何もどうにも出来ない、無
力な働き人である事に打ちのめされた。

とうとう行き詰まってしまい、失望落胆、脱力感におおわれ、もう牧師を辞めよ
うと思った。それまでの人生で経験した事のない苦しみの中で、もうだめだと思
った。ところが、そのどん底で、まさに主に出会った。

「神の賜物と召命とは変わることがない」。自分の力で、知恵で、突き進んでい
た自分の姿を見せられた。自分には出来ると思っていた。その高慢を砕かれた。
自分の無力を思い知らされた時、神のご愛のふところに抱かれている自分を見た。

自分が自分を支えるのでなく、神の愛が自分を支えていた事を知らされた。自分
はどうであろうと、決して変わらずに愛して下さっている神のご愛に触れた。砕
きは神の愛だ。自分でやっている間は、神がわからない。神を脇に押しやって、
自分が奮闘しているのだから。無力になった時、初めて神がわかる。挫折は大い
なる祝福だ。
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この世の、肉の、価値観は、出来る事が良い事なので、どうしても頑張ってしま
う。しかし、神の価値観は真逆で、無力が幸いだ。砕かれて自らの無力を知った
時に、神に出会う。弱くて良いとは何という平安、安堵だろう。