2011年01月16日(日)

「私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Uサムエル12:23


ダビデは姦淫の上に殺人の罪を犯し、罪に罪を重ねた。王の地位ゆえ、その罪を
隠ぺいし握りつぶした。しかし、神が遣わされたナタンの指摘により、王位に関
わらず、罪を認めて告白した。

「私は・・罪を犯した」。その罪は赦された。主も又、罪を見過ごして下さった。
罪は赦されるが、しかし、罪には刈り取りがあり、蒔いたものは必ず刈り取る。
「あなたに生まれた子は必ず死ぬ」。バテシバが産んだ子供が病気になった。

ダビデは祈り、断食し、一晩中地に伏した。ひたすらその子の癒しを祈りに祈っ
た。しかし叶わず、その子供は死んでしまった。ダビデはそれを聞いた時、怒り、
わめき、呪い、嘆いたりしなかった。起きて身体を洗い、身に油を塗り着替え、
宮へ入り礼拝した。

御名を崇めたのだ。ダビデは切なる願いに、「ノー」であった時、それを受け入
れた。私たちも、ノーが答えである時、それを受け入れる事を教えられる。ノー
は嬉しくないが、時に、ノーの答えがある。

パウロが肉体のとげを除いて欲しいと懇願した時、答えは「ノー」だった。とげ
があった方が、より神の栄光と力が現わされ、神の臨在をもって弱さをおおうと。
私たちも「ノー」の答えが来た時、受け入れられるよう祈ろう。それに遙かに優
る神のご計画があるからだ。

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ダビデは心からの願いを願いとして祈り、しかし、ノーの答えが来た時に、受け
入れた。時に、自分の強い願いに関わらず、明確にノーの答えがある。もし、受
け入れられないなら、正直にありのままの気持ちを伝え、受け入れられるよう、
祈ろう。