2011年05月16日(月)

「これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました」ルカ7:30

          
天国から最も遠いと言われていた、罪深い取税人たちが、ヨハネのバプテスマを受けた。それは神に従い、神を認めるという事だった。最も信仰深いと言われていたパリサイ人、律法学者たちはヨハネのメッセージを受け入れず、バプテスマを受けなかった。神を認めないということだ。

直に主の御言葉を聞き、奇跡を見ても、尚且つ主を拒んだ。どこに問題があったのか。それは彼らの心であった。心が頑なであった。自分のメガネでしか物を見ない。人は誰しも、自分の都合の良いように、物事を見て、聞く。独断と偏見があるが、それが強く、自分のメガネにかなわないなら決して信じない。固い土地は御言葉をはじき返してしまう。

自分のメガネを正しいとする時、御言葉の入る余地はない。自分はどうだろう。偏見で物を見ていないか。又、パリサイ人たちは、外側は戒めを守っていたが、心が無かった。そこに愛とあわれみは無く、本質的には何も行なってはいなかった。戒めを行ない得ない、自分を知り、悔い改めることが、大きな恵みのただ中であり、そこに神の力が働く。

御言葉の下に自分を置き、へりくだって主に頼る時、心は大海のような平安で満ちる。恵みの世界は、何とパリサイ人の世界と異なることだろう。喜びと安堵でいっぱいの、別次元だ。
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自分の経験や知識に満足してしまったなら、大切な御言葉を自分のこととして受け止められなくなってしまう。謙遜になり毎日読むひとつひとつの御言葉や御霊の導きを素直に受け取り、従って行きたい。