2012年03月16日(金)

「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」マルコ5:35 


信仰を妨げるものとは何だろう。「遅かった」、「手遅れ」ということだ。もうダメだ。神の時と、私達の時はしばしば異なる。ヤイロは病の娘のために、主に家に来て頂くよう頼んだ。主はそれに応えられ、共に家へ向かった。その途上に、妨害が入り、中断を余儀なくされた。長血の女性が主のもとに来た事で、手間取ったのだ。

一刻を争うこの時に、ヤイロは気が気でなかったろう。するとそこに使いが来て、娘は亡くなったと告げた。遅かった、手遅れ、もうダメだと。しかし、主は即、「恐れないで、ただ信じていなさい」と、ヤイロに言葉をかけられた。

神の「時」がある。すべてが主の御手の内、主に遅延は決して無い。ラザロの時も、主は時を待たれた。時が満ちるまで断固動かれず、そして、死んだラザロをよみがえらせる事により、主の栄光を現わされた。遅れではない。それは主の定められた「時」であり、栄光のためだ。主が語られた御言葉を握っていよう。「恐れないで、ただ信じていなさい」の言葉にすがりつき、そこに立つことだ。

そして世の言葉「なぜ、この上先生を煩わすことがありましょう」を聞き流すべきだ。否定的な言葉から不信仰、疑い、不安、恐れが生じる。世の言葉、肉の言葉、サタンの語りかけを拒否しよう。聞く言葉と聞き流すべき言葉がある。
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私を十字架で救って下さった主を、自分の勝手な量りによってあきらめ、悩みや問題から主を締め出して「自分で対処します」の冷ややかな態度をとる事がある。どんなに長く困難な解決に見えても、ただ信じ、主にのみすがっていたい。