2012年04月15日(日)

「アブラハムが目を上げて見ると・・一頭の雄羊がいた・・それを自分の子の代わり に、全焼のいけにえとしてささげた」創世記22:13   


アブラハムは、25年間神の約束を待ち続け、100歳の時に我が子イサクを得た。
非常に長い忍耐の結果だった。しかし完璧な人間でなく、スーパーマンでなく、
彼も私たちと同じ弱い人間であった。それゆえ数々の失敗があった。神の時を待
てずに、肉の手段でイシマエルを産み出してしまった。

しかし、ヘブル書で、アブラハムは信仰の人として賞賛を受けている。イサクを
献げるという、大試練が臨んだ時に、アブラハムは従順に従った。その彼に神は
「あなたが・・あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを大い
に祝福し」と、神から祝福を受けた。

だが、簡単なものではなかったろう。25年待って与えられた、目に入れても痛
くない最愛の子だ。そして、このイサクから子孫が増え広がるのであり、この約
束はどうなるのか??イサクが山への途上で「いけにえの羊はどこに」と問うた
時、彼は「神が備えて下さる」と答えた。

彼はこの事において神を信頼した。しかし、そこにはいけには無く、我が子イサ
クをいけにえとし、刀を振り下ろす瞬間に、主は止められた。すると、そこにい
けにえの羊があった。これは彼も全く知らなかった事だ。私たちも一歩先は全く
見えず、明日の事もわからない。
しかし、神は知っておられる。一歩〃この神に信頼し、信じて委ねて歩む時、一
生涯の間、「主の山の上に備えあり」を経験して行く。

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主は、私たちの明日をすべてご存じの上で「何も思い煩うな」「心配無用」と言
われる。一歩一歩従って行く時に、必ず主の山の上に備えがあるからだ。生涯、
明日に主の愛を見て平安に包まれて歩むのと、思い煩いの暗黒に歩むのとどっち
が良いだろう。