2012年06月15日(金)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


プライドとは絶対的なものでなく、相対的だ。自分が持つものに満足せず、他人より多く持ち、他人より上である時に満足する。だから常に「比較」があり、競争相手が、自分より優位にいる事が許せない。勝ち負けの世界であり、どうあってもライバルの上に立ちたい。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と、女たちが笑いながら繰り返し歌った。

「サウルは千を打ち」だけなら問題無かったが、「ダビデが万」というのが気に入らない。比較された時にダビデを妬み、その妬みは憎しみとなり、殺意までに増幅した。対人関係の争いは、又、国家間の争いは、こんな人間のプライドに起因する。

蛇が、アダムとエバへの誘惑に働いた事は有名だ。彼らのプライドを巧妙にくすぐり誘惑した。善悪の知識の木の実を食べる事を禁止するには、何か神の下心があり、神は、神のようになられるのが嫌だから、禁止しているのだと。なぜいけないのか。自分たちだって神のようになれると、サタンがプライドに挑んで来た結果、罪を犯してしまった。

その罪の性質が、私たちの内にある。自己中心であり、自分を高くする。しかし、主は丁度その対極だ。ご自分を捨てられ、自分を主張されず、ご自分を低くされ、死にまで従い、十字架の死にまで従われた。ここにプライドからの救いがある。主と共にプライドは十字架に釘付けられた。そこに立って従って行こう。
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プライドはいつも誰かと競り合う。良いことも虚栄からとなっていないだろうか。人の評価が自分の高ぶりの心を満足させるなら、慎みと恐れを持って主の十字架を仰ごう。