2012年10月16日(火)

「喜ぶ者といっしょに喜び・・」ローマ12:15


「『作り笑い』はできるが、『作り喜び』はできない」と言われている。笑顔は作れるし、内側がどうであっても、外側は幾らでも繕えてしまう。笑顔は自分で作れるが、喜びは自分で作ることはできない。幾ら喜んでいる振りをし、装えても、心に喜びがあるか、無いかは、自分がよく知っている。わかっている。

ある人が、友人と一緒に受験して、友人は合格、自分は不合格だった。失望落胆で、落ち込み、心は真っ暗だった。再度、浪人生活を思うと、更に心は重く沈んだ。しばらくは起き上がる力も無かった。そして、どうしても友人の合格を素直に喜べなかった。羨ましくてたまらず、妬ましい。でも、心に喜び無く、苦しく辛い。

ある人は、子供が身体を壊し、入院、先の見えない療養生活を送る中、同世代の子供達が就職し、楽しそうに社会生活を送る姿を気持ちが沈んで、見たくなかった。喜べなかった。彼らは喜べない、人を祝福できない自分の姿をはっきりと、主の御前に認めた。「喜べません。でも、このままで良いはずはない。助けて下さい」、主にありのままの気持ちを告げて行った時、心が変えられた。

生まれつきの私たちは、人の喜びを喜べない。自我があり、自己中心な存在だからだ。自分の心をごまかさず、逃げずにそのような者である事を、認めて行く時に初めて、御霊の働きにあずかり、自分が確かに変えられて行く。心が平安にされ、自分にも、自分のための祝福を、喜びを備えられていると信じることができる。悲しみが喜びに変えられることを体験する。
-------------
泣く者と一緒に泣けても、共に喜ぶことばなかなかできない。すぐに神様に心を向けて行こう。喜べない自分の醜さに気づきを与え、取り扱って下さる神様の愛と恵みにまず心からの喜びが生まれる。