2012年11月15日(木)

「・・そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩編106:14



イスラエルの民は、激しい自分中心の欲望にかられて、わがままに、自分勝手に主に願い求めた。しかし、主は彼らに、彼らの願った通りのものを与えられた。だが、彼らは、決して心満たされることはなかった。願ったものは得たが、心はやせ衰えて行った。

主は、民がどうしても欲しい、何があっても欲しいというものを与えられた。しかし、その結果は、欲しいものを得て、心は満足するはずなのに、そうではなく、平安無く、喜び無く、ますます虚しくなって行った。私たちも、これが絶対に欲しい、これを持つと絶対に自分は幸せになれる、満ち足りると思い、どうしても手に入れたいと願う。しかし、自分が幸せになると信じている、そのものが、真に自分を幸せにするのではない事に気づく。

自分はこれが絶対だと思うものが、自分にとって真に良いものだとは限らない。私の最善は、主がご存じだ。「彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった」さとしを待ち望まなかったとあり、自分が思うものは、真に自分のためになるとは限らないので、主のさとしを求めるのが良いのではないか。

日々、主のさとしを待ち、御霊が教えて下さること、語って下さる御言葉に耳を傾けて行く。そこに真の心の満足と平安がある。そして、自分が一番願っていたものは、欲しかったものは、主との交わりであったと気づく。
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あれがあれば、これもあればと思うが、単に欲しいものが与えられた時よりも、主の御心を知り、主が最善をと与えて下さったものを受け取った時は、主と共に生きているんだとの実感で心は真に満ち足りて行く。