2013年01月16日(水)

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」ガラテヤ5:25


日々の生活で経験するところだが、御霊に導かれて、御霊の支配の中で生きる時、私たちは自由で、喜びがあり、感謝がある。しかし、律法のもとで、肉に従って生きるなら、途端に辛く苦しく窮屈になる。「〜ねばならない」に陥って、「今のままでは、だめだ、だめだ」「もっと頑張らねば」、平安も喜びも失せて、心しんどく苦しいばかりだ。自由がなく心が重くふさがれるようだ。

あの一タラントのしもべのように、常に神に要求されているように感じる。神がひどい、恐い方で、蒔かないところから、刈り取る非常に厳しい方になってしまう。そこには感動も喜びも無い。今、どうだろう。重苦しい信仰生活だろうか。辛いなら、御霊によく心探って頂こう。自分の力で頑張っているかも知れない。自分でしているなら、必ず辛い。

例えば、妬みや敵対心、怒りが湧き上がる時、これは良くない事と、自力で心の奧に抑え込むだろうか。抑え込んだものは、無くなるのでなく、ずっとそこにある。膿んでただれる。そしていつか爆発する。この時に、抑え込まず「私は怒っています、妬んで、憎んでいます。」と一つ一つ、人に言えない思いを、主に告げる事が大切だ。

隠さず、言い訳せず、ごまかさず、主の御前に認めて、言い表して行くことだ。そうすると、御霊は悔い改めに導き、平安にして下さる。絶えず主を呼び、言い表わして行く時、嫌な思いが消えて行く事を経験する。絶えず主を呼び求めよう。
-------
ねばならない、ねばならないと、奴隷のように自ら選んでやらない行為を主は喜ばれるだろうか。「できません」と心を主に向けたなら、御霊の導きの中へと主が変換させて下さる。