2013年04月15日(月)

「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11


神の御心は、しばしば、自分の願いや期待とは異なる。自分の心からの願いである道を祈り求めるが、切なる願いに関わらず、目の前で道が閉ざされることがある。その時は、願いが断ち切られたようで、辛く悲しい。「何で?どうして?」と思ってしまう。しかし、神が下さるのは「良いもの」だ。必ず更に良い道、ふさわしい道が備えられている。

今まで、振り返ってみてどうだろう。願いが断たれたが、更に良いものを与えられて来たし、これからも与えて下さる。又、病気のいやしを求めて祈る時に、それが御心なら、いやして下さり、又、御心なら病気のいやしでなく、心に平安を与えて下さる。その病の中で、御霊の平安と喜びが与えられ、感謝しつつ生きて行けるようにされる。心に奇跡のわざをして下さる。

パウロとシラスは、捕らえられ投獄された。主は、投獄を免れさせる事もできた。しかし、鞭の上に、投獄という苦しい状況の中で、状況を変えるのでなく、彼らの心に喜びと平安を与えられた。「パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていた」。その事で、周囲に大きな証しとなり、看守家族の救いへと導かれた。

私たちの思いと神のみ思いは、時に異なるが、わかる事は、常に最善のものを与えて下さることだ。そして、神は愛であり、善い方だ。良いことしかされない。神のお心を信じて行こう。その時、自分の思い通りでない事態を受け止めて行ける。
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自分を中心に見ていると現状は混乱と思い煩いばかりだ。今わからないけれど神様が最善の物を与えて下さらないわけがない。今はその途上だと信仰にたって見ていよう。やがてはっきりわかる時が来る。