2013年05月16日(木)

「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです 」マタイ18:15

             
対人関係での、問題の解決の仕方が示されている。まず「ふたりだけのところで責めなさい」と。責めるべき当の相手でなく、まず関係の無い第三者のもとへ行き、当事者をあれこれ批判し、罪に定めていないだろうか。その結果、それが巡り巡って当事者の耳に届く事になる。そうすると誤解が生じ、感情の糸がもつれて、余計問題がややこしくなる。

当時、罪を犯した人は、大勢の人々の前で責められた。姦淫の現場で捕らえられた女性も、大勢の人々の前で断罪された。しかし、主は、彼女に一対一で向き合われた。「ふたりだけのところで責める」とは、第三者を入れず、相手の人格を尊び、大切に扱うことだ。それが罪を指摘することができる、信頼関係の土台となる。人前で責められると、まず心を閉ざしてしまう。そして責める目的は「兄弟を得たのです」兄弟を得るためだ。

単に断罪し、裁くためでなく、関係を建て上げ、培い、深めて行くためだ。罪を責める動機はどうだろう。愛によらず、単に自己正義、義憤だけなら、更に関係を悪化させてしまう。経験あるだろうか。主の動機はどこまでも「愛」だ。「もし誰かが過ちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」御霊に導かれて、愛によって語る時、その言葉は用いられて行く。
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相手の罪を責めるには、愛を持って語る責任がいる。ただ罪だけを責め立てるような無責任な噂話しや、また心で裁いてしまったり、祈り、愛によって直接語れないなら、人を裁くこともやめよう。