2013年08月16日(金)

「・・人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15:5 

       
私達は、誰しも充足感が欲しい。心満たされたいがために、何かをして、走り回っていないだろうか。「自分の力で」仕事や勉強に没頭し、趣味に走り、又は、奉仕に忙しくする事によって、心満たされようとしているなら、満たされないばかりか、ますます渇くことになる。私達は、何かを行なうことによって、心が満たされるようには造られていないからだ。

主以外のもので、心を満たそうとするなら、更に心が渇くことになる。そうでなく、「わたしにとどまり」とあるように、主にとどまる事によって、初めて心が満たされる。これは大切だ。世は、自分の能力をフルに発揮する事にやっきになる。それが心満たされる道だと考える。

しかし、私達は違う。自分で人生をやり繰りする事を、明け渡した時に初めて、神の下さる深い安堵を経験する。自分の力で何かをして、充足感を得るのではない。自分で出来るなら、神に頼る事はない。それが「わたしを離れては、何もすることができない」ということだ。

しかしそれは、能力が不要という意味ではなく、一旦主に明け渡す時、主はその能力をきよめて用いて下さる。モーセは使い慣れた杖を地に投げると、蛇に変わった。その尾をつかむと、再び杖に戻った。その杖は神の大きな力を示す道具と、用いられた。あなたの持てるものを一旦明け渡す事が必要だ。その時、それをきよめて、神のご用のために用いて下さる。多くの実を結んで行く。
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自分の経験や知恵を頼ると、すぐにサタンが御約束を奪い去ろうと焦りや不安を持って来る。私達は主を離れては何もすることがでない者だが、主にいったん明け渡したなら、豊かな実を結べる。