2013年11月15日(金)

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5


「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と主は言われた。しかしこの日、ペテロは徹夜で漁を終えたところであり、一匹もとれなかったのだった。プロのベテラン漁師だ。いつも漁をしている場所であり、どこに魚がいるかも熟知している。そして漁は夜するもので、朝に魚などいるわけがない。目に見えるところ、つまり目の前の現実と、主の言葉が合致しない。正反対だ。

こんな時は、どうするのか。ペテロは、目に見えるところは、現実は、何一つとれなかったことを認めて、しかし「でも」で、つないで行く。「でも、おことばどおり」が信仰だ。主の言葉と全く相反する現実を見るが、「でも」主の言葉を優先し、選択した。この反対が不信仰だ。「深みに漕ぎ出して・・」の主の言葉に対して、「でも」夜通し働いたが、何一つとれなかった、だからだめだ、の態度だ。

この二つの「でも」は天地ほどの差がある。12人の斥候もそうだった。「わたしがイスラエル人に与えようとしている地を探らせよ」と「わたしが与えようとしている地」と主は明言された。しかし10人は非常に良い地だが、「でも」大きな城壁、強い民がいてだめだと言い、一方ヨシュアとカレブは、見えるところはそのようだ。「でも」主の約束の地だから、主の言葉があるから、占領しよう、必ずできると言った。御言葉と現実が相反する時、「でも」御言葉のほうに従おう。
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現実と御言葉はいつも相反する。そこに信仰を働かせなさいと主は導いておられる。今までの経験や知識では見たことのない地が向こう岸にある。信じて主と共に行こう。