2013年12月16日(月)

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」ヨハネ12:24  



私たちには、古い性質と新しい性質があり、古い性質は、常に自分を中心に回っている。自分に損か得かを考える。自分の利益にならないことに、時間、労力、富は使いたくない。犠牲を払うことがおっくうだ。回避する弁解と言い訳は幾らでも出てくる。自分に死にたくない。

ある婦人が、婦人クリスマス会を、自宅でどうかと打診を受け、とっさに言ってしまった。「その日は仕事」と逃げた。実は、家の掃除や片づけ、準備が面倒だったので、回避したかった。そしてその当日、特別に忙しくて遅くまで残業だった。「あ〜あ、クリスマスなのに、こんなに遅くまで仕事で・・」と愚痴が出そうになった時、ハッとした。主が教えて下さった。

犠牲を払うのが面倒で、とっさに発してしまった言葉、それが嘘にならないよう主が仕事を与えて下さったのだと。本当に心から「ごめんなさい」で、主のあわれみと優しさに心温められて、主と共に仕事が出来た。

麦は地に落ちて、芽が出て、花が咲き、実が実るが、麦自身は地中で死んで、その結実を見ることができない。しかし豊かな実がなる。肉は犠牲を嫌がる。今、何かの犠牲を、主から求められているなら、従ってみよう。自分の思いを通して、自分の好きなように生きるなら、それだけで終わりだ。しかし、自分の思いを捨てて、主の御心に従う時、犠牲も必要だが、必ず豊かな実を結ぶ。そして大きな証しとされる。
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古い性質の自分自身を堅く握っていては、一粒のまま、自分も周りも何も変化しない。自分に死んだ多くの犠牲と祈りによって私たちはここまで来ることが出来たのだから、犠牲をいとわず主の示しに従いたい。