2014年12月15日(月)

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではなかった」マタイ18:33



人を赦せないことを経験した事があるだろうか。赦せない心ほど苦
しいものはない。心がずっと辛い。四六時中、憎しみに支配され、
がんじがらめで、まさしく暗黒の牢獄の中だ。それも自分から牢獄
に入ることになる。逃れることができず、囚われの身だ。心は重く
苦しい。

人を赦すのは、自分自身が牢獄から出るためで、自分のためだ。赦
せない思いは、相手でなく、どんなに自分を傷つけ、苦しめる事だ
ろう。人を赦せず、苦しむのは相手ではなく、自分自身だ。「私た
ちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人
たちを赦しました」と、まず、自分に負いめのある人を赦している。

だから、自分の負い目も赦して下さいと。赦そうとする「意志」は
大切だ。赦せないが、まずは赦そうとの意志を向けない限り、何も
始まらない。赦せないのではなく、赦したくない、絶対に赦そうと
しない自分を見い出す。赦すことの困難さの中で、主の十字架の赦
しが、この赦せない自分のためだと迫る。

自分には出来ないが、主によって人を赦すことができる。憎む相手
に、自分を支配され、来る日も〃も、憎しみと恨みで、がんじがら
めにされたいだろうか。憎む相手に、自分の人生を支配される事を
拒絶し、解放されよう。相手を赦す時に、牢獄から出て、自由の身
にされる。解放される。喜びが溢れ、平安に満ち、自分を取り戻す
ことが出来る。
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神は私たちの罪の救済のために馬屋の飼い葉桶に御子を捨て置かれ
た。そのご愛は、たった一人の人も許すことができず、平安なく憎
しみの牢獄にい続ける弱さを憐れんでおられる。心の中で相手を攻
撃するのはやめよう。