2015年03月16日(月)

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6




信仰人生で、私たちがつまずくのは、どんな時だろう。よく考える
と、「自分の」期待に、「自分の」求めに、「自分の」思いに、そ
ぐわない時ではないか。よく考えてみると、とにかく「自分の」強
い願い、思いが通らない事で、つまずいていないだろうか。自分に
全く関係の無い事で、人はつまずく事はない。

「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、自分
の思い通りにならない時に、つまずいたと思う。そして、そんな神
なら要らないと、去ってしまう。自分の願いが叶えられないなら、
意味をなさない。偶像なら、そうだろう。当時の、主の周囲にいる
人々は、主を現世的、政治的指導者、権力を持つ王として、主を求
めた。メシヤとして華々しく王位につく事を。

しかし、現実にはどうか。王になるはずの主が、当時、最悪の刑で
あり、極悪人がかかる十字架刑で死ぬなどと、到底受け入れられな
い。人々は自分たちの思いに合わない主を捨てた。思い通りでなく、
期待通りでなく、期待を裏切る主が腹立たしい。そして失望する。
私たちもどうだろう。信仰人生が自分の思い通りでない、願いが叶
えられない、その時につまづく。

その時の軸が「自分」であり、自分の気持ち、自分の思い・・。そ
の軸を神に変えてみよう。神のみ思いは?神のお心は?神はどう思
っておられるのか?神を軸におき、その神に自分の心をそわせ、明
け渡して行く。その時に、今までと違った世界が見える。初めて神
が見え、御心が見えて来る。
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祈っても思うように解決しない問題や停滞する状況など、自分軸で
見るならとても理解できない。あきらめて自分の思いで動き始める
なら神の介在を認められず、つまづいている事にならないだろうか。