2015年05月16日(土)

「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも おことばどおり、網をおろしましょう」ルカ5:5



ある人が子供の入学資金を少しづつ貯えていた。ところが他の人に
急な経済的必要が生じた。今、手元にある額だった。自分の子供は
まだ少し先だ。祈っていると、どうもそれを献げるよう、主が言っ
ておられるのではと感じる。

続けて祈ると御言葉から次々と示される。しかし子供の入学金はど
うなるのか?だが主の示しは変わらず、ますます御言葉から迫られ
る。子供の事で迷ったし、非常にちゅうちょもしたが、とうとう決
心して主に従い、献げた。

するとすっきりし、心は晴れ晴れし、すべき事を成し遂げた平安に
満たされ、喜びが来た。後悔は無かった。その後、子供のための必
要は、親や祖父母や思いもよらぬ親族からの合格祝いとして、満た
された。その時に自分の思いを退け、御声に従う事の祝福と喜びを
教えられた。

私たちもどうだろう。自分の思いと主の示しが、相反する事を時に
経験する。自分の思いは合理的で、良い考えで、常識的だと思える。
どう考えても妥当だと。ペテロも「深みに漕ぎ出して魚をとれ」と
言われた時、あり得ないと思ったろう。こんな時間に魚などいない。
それに夜通し懸命に漁をしたが、一匹もとれなかった。

だがペテロは「でもおことばどおり」と従った。すると大漁の破格
の祝福だった。従う時に大きな祝福を見る。そして更に大きな祝福
は、この時、ペテロは自分の罪を知り、主がまことの神であること
を知った。自分の思いでなく、見えるところでなく、御声に従って
行こう。必ず成長へと導かれる。

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信仰生活でしばしば経験する。主の示しより、自分の考えの方が
良く見える。古い価値観、この世の価値観があり、無意識にも妥当
に思える。しかし信仰もって御言葉の方に従う時、新たに主を経験
する。目の前の選択は御声に従おう。