2017年01月16日(月)

「ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを堀り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」マタイ21:33


「ぶどう園と農夫」のたとえ話がある。主人がぶどう園を造って、
垣を巡らし、酒ぶねを堀り、やぐらを建てた。きちんと何もかも準
備し、それを農夫たちに貸し、旅に出た。収穫が近づき、主人は自
分の分を受け取ろうと、しもべ達を遣わした。ところが、農夫達は
しもべ達を袋叩きにし、殺し、石で打った。

主人は、尚も多くのしもべを遣わしたが、同様にした。主人は、自
分の息子なら敬うだろうと、息子を遣わしたところ、何と、農夫達
は財産を手に入れようと、その息子を殺害してしまった。この主人
は神で、息子はイエス・キリストで、農夫は祭司長律法学者たちで、
しもべは預言者たちだ。祭司長パリサイ人たちはこのたとえ話を聞
いた時、自分たちの事を言われている事に気づいた。

それで主を捕らえようとしたが、群衆を恐れた。肉の性質、罪の性
質はどうだろう。間違いを指摘された時に、へりくだってそれを認
め、悔い改めるのでなく、むしろ反対に、心頑なにし過ちを認めず、
怒りとなり、相手を攻撃して行く。彼らは激怒で、主を何とかしよ
うとしたが、群衆の反発を恐れて出来なかった。

肉は、過ちを認めたくない。認めると自分が崩壊してしまうように
感じる。赦しが信じられないからだ。だから自分を正当化し続ける。
自分を義としてしまう。しかし、そんな自分のための十字架であり、
厳然と赦しがある。赦しが頭だけで、受け取れていないなら、そう
できるよう祈ろう。祈りは必ず答えられる。
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言い訳をしながら自分を正当化させて行く肉の方法から、主の方へ
向き十字架の赦しを経験しよう。主よそれは私のことですと過ちを
認める者でありたい。主に聖められ、いつでも新しく生まれ変われ
ることは感謝だ。