2017年05月16日(火)

「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」ヨハネ6:15


主は、5千人の給食の奇跡をされた。それを見た群衆は、主を王に
かつぎ上げようとした。しかし、主は、大勢の群衆が主を信じると
言い、後を追いかけ回しているのは、主ご自身を求めてではないと
言われた。しるしを見て、そこに霊的な恵みを見て、この方こそ主
キリストと信じて、ついて来たのでなく、パンが欲しくて、そして
更なるパンで満たされたい。自分の願望が満たされたいがゆえに、
ついて来ていると。

満腹とは、自分の欲望が満たされる事であり、自分の満足、自己実
現だ。肉の喜び、肉の満足が欲しいばかりで、そこに主がまことの
神である事や、永遠の恵みを見る事はない。主は求めよと言われる。
そして祈りに答え、必要を満たして下さる。しかし、気をつけてい
ないと、私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望満足だけに向かって
しまう。欲望充足の手段となってしまう。

そしてそうであれば、欲望が叶えられず、思い通りにならない時に、
遅かれ早かれ主のもとを去る。主は、そんな私たちをあわれみ、正
しく導くために、時に、思い通りでない答えを与え、よく考えさせ、
動機を探らせ、省みさせて下さる。

「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で
心を探り、取り扱い、御心に適った者へと成長させて下さる。思い
通りにならない状況は大きな恵みだ。主に近づき、主のお心を尋ね
よう。動機が探られ、更なる成長へと導かれる。
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自分視点でしか主を見られない時は、祈っても毎日が不安と不平で
で仕方ないが、主はどういうお方で、主はどんなご計画を持って・
・との見方に立つなら毎日は新しい発見の連続ではないだろうか。