2017年06月15日(木)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろとなだめてみた」ルカ15:28


ある時、取税人、罪人たちが主のもとに話を聞きに来た。そこにパ
リサイ人らが、主が罪人たちを受け入れ、食事を共にする事を非難
した。そこで、3つの失われたものが見つかった喜びの話をされた。
一匹の羊と一枚の銀貨と放蕩息子だ。

迷い羊、無くした銀貨、放蕩息子は、取税人や罪人であり、迷って
いない羊、無くなっていない銀貨、兄息子がパリサイ人、律法学者
だ。失われたものが見つかり大喜びしたと同時に、失われていない
ものも同じように愛されている。パリサイ人たちは自分たちは迷っ
ていない、失われていない、放蕩していないと思っていた。

放蕩の弟が戻り、父親が大喜びで宴会している事に、兄は激怒した。
自分は辛い目をして毎日労苦しているのに、どういう事か。弟は
「あなたの息子」と他人であり、父に怒りが向く。しかし父は兄を
見放さず、なだめて寄り添い話を聞く。自分も愛されている事が全
くわからない。自分に子山羊一匹くれない、何もしてくれないと言
うが、そんな事はない。

父親は「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部お
まえのものだ」と言っている。これほどの深い愛で愛されている。
弟を迎え入れた父は、何かをしたからではなく、存在そのものを愛
して下さっている。兄も同様であった。それが兄にはわからなかっ
た。私たちも、時に兄息子になる時がある。父の無条件の愛のもと
に帰り、安んじよう。
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無条件の御父の愛をいつも自分のものとしていよう。いとも簡単に
兄息子になり、全部自分でやっているのにと人の足りなさを裁く醜
さに陥る。御父の近くにいよう。罪に気づかされまたやり直せる。