2017年10月16日(月) 「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう・・うるさくてしかたがない」ルカ18:5
「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう・・うるさくてしかたがない」ルカ18:5
この人は裁判官だが、神を恐れず、人を人とも思わない人物だ。し かし、裁判官であるという事は法律に乗っ取って裁くという事だ。 人格的には、人を人とも思わないような人だが、やもめが余りにう るさいので、これ以上対応が面倒なので、裁判をする事にした。 ここでは、こんな人でも、やもめがうるさいからの理由で、裁判を するのであれば、ましてや完全な愛と完全な義を持つ神が、正しい 裁きをされずに、いるわけがないと言っている。こんな人格的に問 題のある裁判官でもそうするのだから、対比して「ましてや神は」 という事を言っている。 完全な愛により、常に私達の最善を考えて下さっている神なのだか ら、失望は決してあり得ないと。祈りの執拗さ以前に、祈る相手が どんなお方かが肝心で重要だ。神はすみやかに正しいさばきをして 下さる。「パンを三つ貸してくれ」としつこく頼み続けて、パンを 得た人も、友達だから愛情のゆえにくれたのでなく、執拗さのゆえ に勝ち取った。 ここでも、重要なのは、だが神はそうではないという事だ。うるさ いからでなく、子だから良いものを下さると言っている。だからこ そ神に、失望する事なく信頼し続ける事ができる。ガンガン祈るか らではなく、極みまで愛し、必要をご存じで、祈りに答えようと待 ち構えていて下さる主。その主に信頼して祈れるとは、何と私たち は幸いだろう。 ------------- ヤコブのように格闘する祈りもあれば、失望へ向かいそうな心や迷 う時、恐れが来た瞬間など一瞬一瞬が祈りの時だ。しつこいほどに 絶え間なく祈っているだろうか。