2017年11月15日(水)

「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」マルコ11:33


主は宮で商売をしている人々を追い出したが、祭司長、律法学者、
長老たちは、何の権威によっているのかと、主に詰め寄った。する
と主が逆に問いかけた。「ヨハネのバプテスマは天からか、人から
か」と。天からと言えば、なぜ信じないとなり、人からと言えば、
群衆はヨハネを預言者だと思っているので、人からどう思われるか
が恐い。

どちらの側にも立たず、「わかりません」に逃げ込んだ。結局、真
理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われ
るかであり、自分の立場を守る事が判断基準であった。時々、祈っ
ているのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがあ
る。そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないか、心探
ってみよう。

態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。あいまいのままに
しておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、
こっちにも良く思われたい。どちらも欲しい。結局、自分の思い通
りに生きたい。しかし、時に、はっきり迫られる。「群衆なのか、
主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかりません」と逃げ
ると、「わたしも・・話すまい」と言われた。

「わかりません」と逃げないで、「人を恐れています」「中途半端
です」「犠牲を払いたくないです」と、ありのままの姿を認めて、
「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。そうするなら、御
心へと導いて下さる。
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真理は御言葉によってはっきりと指し示されている。出来ること、
出来ないことを自然に振り分けてしまうが、出来ないことを祈れる
ことが感謝だ。曖昧でない、本音の自分で主に応答しよう。