2018年02月13日(火)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」士師17:6



ミカという人物がいた。そのミカの母親が盗難に会い、銀千百枚が
盗まれた。その時、母親は盗んだ者を呪った。しかし、自分の息子
のミカが、盗んだ事を知るや一転、息子を祝福する。まるで一貫性
が無く、自分の都合次第だ。ミカが銀を返した時、母親は、その銀
を聖別して主に献げると言ったが、二百枚を献げただけで、何とそ
の銀で我が子のためにと、彫像と鋳像を作った。それがミカの母親
だった。

ミカもミカで、自分の家に宮を作り、自分の息子の一人を祭司に任
命していた。そこにレビ人の若者が来たので、お金の力で、自分の
家の祭司にした。レビ人も、お金に目がくらみ、それを受け入れた。
王が無い時、このように霊的にも道徳的にも混乱し、偶像礼拝がは
びこり、秩序は乱れ、混沌状態だ。めいめいが自分の目に正しいと
見える事を行なった。

つまり自分に都合の良い事をした。正義も、義も、神の御心も無く、
ただ自分の損得、自分の都合で、判断もその場〃で、コロコロ変わ
る。そうなるのは、「王がない」ためだと。人は、王が無い時に、
自分中心、自分次第、自分勝手に歩んで行く。私たちも、どうだろ
う。何かを判断し、決める時に、軸は自分の損得、自分の都合だろ
うか。

それとも神の御心だろうか。自分の都合がまず来るだろうか。そう
であって、気づいていないだろうか。物を決める時、判断する時を
振り返ってみよう。主を心に据え、王座に来て頂いて、主の判断を
仰ごう。
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自分の価値観で動いた結果はどうだろう。一瞬の心の満足はあって
もすぐ次の混乱がくる。心の軸に主を据えて主の目に正しいことは
何かと祈って行こう。そして主の御心の中を歩もう。