2019年10月16日(水) 「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ・・」詩篇73:2
「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ・・」詩篇73:2
詩篇記者は、悪者が富を増し、栄えるのを見て落ち込んだ。自分は 足がたわみそうで、滑るばかりだ。だが、彼らは楽しげで肥え太り、 あぶらぎり何の苦しみもなさそうだ。だのに、神を信じる自分は苦 しみばかりで、惨めで、何の良い事もない。どうして自分はこんな にも惨めで、神を信じない者が栄えるのか。不満でいっぱいだった。 しかし、それは「私が誇り高ぶる者を妬んだ」からだった。そして その妬みは、人との比較によって生じるのであり、神を見ずに、人 を見ていた事によるものだった。信仰生活で、平安や喜びが失せる のは、状況の問題ではなく、神以外のものを見て、それが心を占め、 重きを置き、第一になっているからだ。 その底に、人知れない富への欲や、人からの賞賛を求め、それを愛 する心がある。それが人への羨望、妬みになって出る。それは、神 に焦点が合っていないからであり、その時、欲求不満や愚痴、虚し さ、いら立ちとなる。そのため喜びがなく、虚しい。彼は聖所に入 った時に、光が来た。心荒み、悶々状態の原因は、目の前の状況で はなく、「神と自分の関係」にあると悟った。 神から離れているから、平安が無いのだと。今、平安が無いなら、 苦しい問題のせいと思うが、そうでなく、心が、神以外の所にある からだ。逆に、どんな困難な中でも、神との親しい交わりにいるな ら、心は不思議な平安に守られる。神の近くにいることが、幸せな のだ。 ------------ 妬みや落ち込みの時も神と共にいよう。共にいてくださる神を見失 うことは何よりも悲しく恐い。褒めてもらうのも、応答するのも第 一は人ではなく神だ。