2020年05月16日(土)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神 よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17


エデンで、アダムとエバは罪を犯した。その時、主はアダムに「あ
なたは・・食べたのか」と問われた。それは愛ゆえに、悔い改めの機
会を与えるためであった。アダムは「ごめんなさい。食べました」
と罪を認める事ができた。だがアダムはそうせずに、エバのせいに
した。「この女がくれたので、食べた」と。

更に「あなたが私のそばに置かれた女」と神のせいにした。有名な
責任転嫁だ。「あなたのせい、あの女のせい、あなたが悪い、あの
女が悪い」、そして自分は悪くなく、被害者だ。ダビデも姦淫と殺
人の罪を犯したが、ダビデはその後、悔い改めた。その時、自己正
当化も、バテシバへの責任転嫁もせず、弁解、言い訳せず、ダビデ
は悔いくずおれた。ダビデは砕かれた。

ダビデは主の御前だけでなく、人々の前にも罪を隠さず、体面やめ
んつに関係なく罪を認めた。王であり、トップであり、なかなか出
来る事ではない。ダビデは、主の御前に、人々の前にへりくだった。
主は砕かれた、悔いた心をさげすまれない、軽しめられない。

「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」「主は心の打
ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」。
自分の罪を悲しみ、心から悔い改める魂に、主は大変近くあられる。

・・・・・・・・・・
罪を犯しても、結果がまずかったので、後悔はするが、悪いとは思
っていなかったりする。仕方が無かったと自己正当化してしまう。
そうするなら、何も変わらない。主が喜ばれるのは、悔い砕かれ、
悔い改めること。その時、赦され、新たにされ、変えられて行く。