2020年08月16日(日) 「イエスはこれを見て、言われた。『行きなさい。そして自分の祭 司に見せなさい』彼らは行く途中でいやされた」ルカ17:14
「イエスはこれを見て、言われた。『行きなさい。そして自分の祭 司に見せなさい』彼らは行く途中でいやされた」ルカ17:14
10人のらい病人の箇所だが、当時、らい病は汚れた病気と隔離され ていた。神殿にも入れなかった。人々に近寄る事は許されず、「私 は汚れた者です」と自分で言わなくてはならなかった。苦しい病の 上に、社会生活は閉ざされ、身体的苦しみと共に、更に精神的な辛 さ苦痛があった。 主のもとへ来たのは切実な、必死な思いであったろう。大声で「ど うぞ、あわれんで下さい」と叫んだ。主はその求めに、あわれんで、 彼ら10人を癒された。そして癒された後、10人の内、1人だけ主の もとへ戻って来た。しかもユダヤ人が敵視しているサマリヤ人だっ た。あとの9人は帰って来なかった。 病気がきれいに治り、社会復帰できて、自由に普通に社会生活が送 れる。生けるしかばねのようであった彼らにとれば、何と夢のよう な喜びだろう。9人は、何とラッキー、万々歳、良かったと、大喜 びで世の中へ帰ってしまった。彼らにとっては飛び切りのラッキー であり、偶然の事であった。そこに神は無かった。 感謝するために戻った1人は、神への感謝と賛美が溢れ出た。その 癒しに神を認め、その神を崇めたのだ。彼だけに、新しい信仰の人 生が始まった。「あなたの信仰が、あなたを直したのです」、彼は 神の愛に出会い、神の愛の中を生きて行く人生が始まった。 何が肝心なのだろう。病気が治る事だろうか。病気が治ると嬉しい が、また別の病気にもなる。そして必ずいつか死ぬ。「世の終わり までいつもあなたと共にいる」その人生へと招いて下さっている。 苦しみ時も喜びの時も、いつも主と共に生きて行けるとは、何と喜 びであり恵みだろう。 ・・・・・・・・・・・・ 同じものを見て、神無しなら、単に偶然で、ラッキーだ。神を認め る事は無い。しかしそこに神を認めて、感謝できることは何という 幸せだろう。どんな小さな事の中にも、神を見て、感謝が溢れる。 主を見る事のできる目を与えられている事が最大の幸せだ。