2021年06月15日(火) 「それから、イエスは弟子たちに言われた『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」マタイ16:24
「それから、イエスは弟子たちに言われた『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」マタイ16:24
時々、他の人が、悩みや問題の中ににある時、よく「私、私、私・ ・」の状態にあるのが、はたで見ているとよくわかる。とにかく自 分に強烈に固執していて、それこそがトラブルの原因である事が、 客観的に見ている第三者にはよくわかる。しかし、自分がその渦中 にいると、誰しもなかなかわからない。 皆は幸せで、自分は不幸で、かわいそうとの自己憐憫に陥る。自分 に注意を引くための自己主張、自己顕示、自分を認めて欲しい、自 分が評価されたい、とにかくすべての関心が、結局は「自分」なの だ。「どうせ私の事など、誰もわかってくれない」となる。自分に 固執している限り、変わって行きようがない。最初から最後まで、 自分の事だけで、これは肉の性質だ。 それなら、生涯それだけで終わってしまう。それは幸せではない。 御霊の喜びもない。主は、十字架の血潮によって、その中から贖い 出して下さった。自己中心にしか生きる事のできない者に、新しい 性質が与えられた。主を喜び、主に従おうとする心がある。その新 しい性質は、主に従う度に成長して行く。自分の思いを置いて、御 言葉に従ってみよう。御言葉と、御霊の導きの方を選択しよう。 その時に、自分が変えられて行く。ここに救いがある。新しい性質 が成長して行く。常に選択だ。御言葉で判断し、御言葉を行なって 行く時に、自己中心な者が変えられて行く。これこそ奇跡だ。そし て主を新たに知って行ける。何と嬉しい事だろう。 ------------ 主を信じてもなお問題や悩みの中にいるが、主の十字架によって、 新しいいのちを受け、主を感謝し、喜ぶ生き方へと変わった。古い 自分には解決できない。主の御言葉に従って生きよう。