2021年09月15日(水) 「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである」マルコ6:49
「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである」マルコ6:49
弟子たちは、主から無理やり舟に乗せられ、こぎ出た。すると真夜 中に大嵐に見舞われ、悪戦苦闘していた。その時、湖上を歩いて来 られた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげた」「みなイエスを見て おびえてしまった」。主を幽霊だと思った。なぜ、主を幽霊だと思 ったのだろう。「その心は堅く閉じていたから」とある。 心が閉じていたので、主を見ても、主だとわからなかった。心の問 題であった。なぜなら、まず、主が湖の上を歩くなどと、思いもよ らず、有り得ない事だった。「彼らの心中の驚きは非常なものであ った」。なぜ、驚きだったのか。弟子たちは、主は偉い先生だが、 人間だとしか思っていなかった。 「パンのことから悟るところがなく」とあり、すぐ前にあった五千 人の給食の奇跡の事だ。その奇跡から何を悟るべきだったのか。 主が、人となられた神であるということだった。しかし主が神だと は、到底理解できなかった。主を正しく認識していなければ、助け ようと来て下さっても、受け入れる事ができない。 そんな事ができると思わないからだ。不信仰は、信仰の力を削いで しまう。主は罪を赦すと言われる。主には出来ると信じるなら、失 敗しても悔い改める時に、喜びと平安で満たされる。だがもし信じ なければ、恐れと不安の暗闇の中だ。私たちはどうだろう。 問題は、心が閉じていることだろうか。自分の見方でのみ見ている だろうか。主にはそんな事出来るわけが無いと思っているだろうか。 主に心を開いて行けるよう祈ろう。御霊が助けて下さる。 -------------- 見えない目、悟らない心の者だ。自分の常識や期待を反映させてい る主ではないだろうか。主が教えようとされるものをまっすぐに信 じ、思い込みを日々に正されて、真実な主を知っていこう。