2024年11月15日(金)

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたので す。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに 仕えなさい」ガラテヤ5:13



主が、十字架で罪について解決して下さったので、私たちは罪が完
全に赦され、律法からも解放され、自由にされた。しかし与えられ
た自由とは、自分の思うがままにする自由ではない。自分の思い通
りなら、それは肉のわがままで放縦だ。自由にはルールが伴い、秩
序があり、責任が伴う。その上に立っての自由だ。

ルールを度外視する事が自由なのではない。魚は水中で自由であっ
て、陸では不自由だ。魚は、水中という拘束の中でこそ、自由だ。
例えば楽器を演奏する時、楽譜に縛られないだろうか。しかし譜面
通りに練習して行くと、曲を演奏できるようになる。スポーツもル
ールを守る事により、持てる力を発揮し大いに楽しめる。

しばしば思い違いをする。すべての縛りから解放される事が自由だ
と。そうではなく、拘束を受け入れて従う事、つまり戒めに従い、
御霊の導きに従うところに、真の自由がある。例えば、嫌いな人が
いると、肉は嫌っていたい。関わりたくない。嫌う事が、自由だと
思ってしまう。しかし人を憎むと平安を失い、心は苦しく辛く、非
常に不自由ではないだろうか。では、どうする事が自由なのだろう。

愛が無い事を認めて、主に愛を求める時に、主は取り扱って下さる。
その示しに従う中で、主からの愛が与えられて行く。憎むのではな
く、愛して行く時に、心は解き放たれ、自由にされる。平安と御霊
の喜びを経験する。自分を明け渡して、御霊に従って行く時に、自
由に、自由にされて行く。
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自我の思うままに生きる不自由さはもう十分に経験済みだ。愛がな
いから主の光の元にいき、主から力を受ける。絶えず主に行き御霊
に従おう。御霊は折々に導いてくださる。