2006年07月16日(日)

「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」ヨハネ9:1

霊の目が開かれたのは、道ばたで物乞い
をしていた盲人だった。パリサイ人でも、
祭司長でもなかった。「イエスは盲人を
見られた」。癒されたのは、イエスがまず目
を留めて下さり、彼がそれを真正面から
受け入れた結果だ。それだけだ。私達
にも主イエスの目が注がれている。しか
し、パリサイ人達は決して受け入れなか
った。「わたしは世の光です」、神の光は、
真実の自分自身を照らし出す。プライド
が高く、人を妬み、虚栄におおわれ、仮
面をかぶった自分、高ぶり、嘘をつく醜い
自分、決して直視したくない、闇の中に
隠しておきたい姿だ。神が見ておられる
ように、自分自身に見せられる。それを
認めて悔い改める時、目が開かれ、
神が見えるようになる。つまりは、主が
「見られた」、目を留めて下さった、そ
のお心に応答したのだ。応答する時、癒
され、私達は変えられる。主の私へのま
なざしに、答えよう。
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御霊は、光で照らし出して下さる。不信
仰で、自己中心な姿を。しかし、それは
まさに私ですと、認めて行く時、不思議に
平安と安堵が来る。今もこの瞬間も、主
の愛のまなざしが私達に注がれている。