2006年11月13日(月)

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのすか」マルコ4:38  



嵐の中で平然と熟睡している主
に「私達が溺れ死んでも何とも
ないのか」と叫んだ。今まで主
のみわざを、その御力を見て来
たので、ある意味、確かに弟子
達の信仰による言葉だった。
何とかできうるお方と信じたか
ら叫んだ。しかし、ここでの弟
子達の態度は、主を主として、
愛し、崇め、へりくだった求め
ではなくて、自分の願いを思い
通りに叶えよ!と、主に命じて
いる自己中心な信仰だ。私達は
どうだろう。自分の願い通りに
叶えてくれる神、自分に良くし
てくれる神、それを求めて神を
崇めているのだろうか。実は自
分が主で、自分の願望充足の神
を求めている。神に仕えるので
なく、神に仕えさせようとする。
主よ、何とも思われないのかは、
助けるべきだ、助けて当然、助
けろよと言う事だ。罪の性質ゆ
え、信仰においてまで自己中心
だ。嵐により、様々な出来事に
より、こんな自らが砕かれて、
自分の信仰の実態を見せられる。
気づかされ、正され、神中心の
信仰へと、日々成長させて下さ
っている。  
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状況は良くなって当然、祈って
いれば必ず思い通りの結果がで
るはず・・・神様の御愛はその
程度だろうか。自分の頼ってい
る杖をとられた時、嵐の中で神
様の真のご計画を知る。