2006年12月16日(土)

「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」詩篇130:3 

                                      
私達は失敗する。自らの罪から失敗を
招いてしまう。背後のサタンに誘惑さ
れ、乗ってしまった結果だ。サタンは
誘惑できるだけであり、罪を犯したの
は自分、責任は自らにある。少しの心
の隙に、油断につけ込まれ、大事に至
ったかも知れない。私達は失敗する者
だ。その責任を取るという事が、悔い
改める事だ。神は完全に赦して下さる。
悔い改めた時、神から離れていた事に
気づく。世にまみれ、又、自分の力に
頼り、いつしかさまよい出ていた自分
に気づく。手痛い失敗を通して、へり
くだらされ神に立ち返る。益と変えら
れる。試練の時に、しばしばこれはあ
の失敗、この過失の罰だと思う。断じ
てそうではない。罰はすでに十字架で
清算済みだ。罰も呪いも一切無い。懲
らしめはバチではなく、愛から出てい
て教育であり訓練だ。愛する者を懲ら
しめられる。罰と愛による教育は大き
な違い、神の愛にとどまろう。
・・・・・・・・・・・
罪は完全に赦される。主の十字架ゆえ
に無罪放免とされる。贖いは罪の無い
血でなければならなかった。それには
御子の血しかなかった。御父の犠牲が
あり、ここに愛がある。完璧な赦しの
道だ。よく考えてみよう。堅く立てる。