2007年04月15日(日)

「主よ。いつまででしょうか。あなたはいつまでも身をお隠しになるのでしょうか」詩篇89:46     

                
詩篇にしばしば出て来る。「帰って来て
下さい。主よ。いつまでこのようなので
すか」神が感じられない体験だ。祈りが
聞かれているように感じない。神が遙か
遠い。神の不在感だ。信仰生活の中で経
験する。これには二つの場合がある。一
つは罪を犯した時で、罪は神との間を遮
断する。罪は神との親しい交わりを奪う。
これは必ず悔い改める必要がある。その
時に平安が戻る。しかし、私達の側に問
題が無いのに、不在感を経験する時があ
る。それは罪とは関係なく、一段階成長
のための神の取り扱いだ。しばしば動揺し、
混乱する。しかし、成長のためのテストだ。
何一つ感じられなくても、神に信頼し、神
を愛し、神に従う事の訓練だ。神が喜ば
れるのは信仰だ。感じる事でなく信じる事
だ。今、罪の覚えが無いのに神が遠く感じ
られるだろうか。その中で神を信じる事を
求めておられる。あなたが感じようが感じま
いが、神は共におられる。決して離れる事
なく、あなたの人生に深く関与しておられる。
この訓練の結果、感情に関係なく、どんな
時も神を信頼して歩むようになる。そして、
その信頼が、何か事が起こった時に「なぜ?
なぜ?」でなく「これにより神は何を教え
ておられるのか」に。視点と態度が変えら
れて行く。  
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暖かい喜びや、幸福感、潤いをいつも
「感じて」いたいものだ。しかし、信仰とは
何も見えず感じない中で信じて行く事だ。
見えたなら信仰でない。時に「感じ」を
取り去られ、全く何も見えない中で信じる
ようにされる。