2007年12月16日(日)

「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った」Uサムエル12:1

自分はへりくだっているのか、高慢
なのか、それは一つの事で試せる。
謙遜な人の特徴は人の忠告に耳を傾
け、痛い警告を聞く事ができるとい
う事だ。これはへりくだっていない
と不可能だ。高慢は、そのプライド
ゆえ、人の忠告を聞けないし、人の
意見など聞かない。自分は正しく、
それも一番正しいのだから、人の意
見など必要無い。特に自分の弱さや、
触れられたくない所など、絶対に触
れさせない。私達はどうだろう。弱
さを隠し、有能な、強い自分を見せ
ていたいだろうか。本当に強い人と
は、自らの弱さを認める事のできる
人だ。失敗しない人でなく、失敗を
決して隠さず、人の前にも素直に認
める人だ。ダビデの素晴らしさは、
姦淫と殺人という大罪は犯したが、
ナタンの忠告に耳を傾ける謙遜さを
持っていた事だ。そして、自らの罪
を明るみに出した。皆が知るところ
となり、誰の目にも明らかで、もはや
隠しようがない。ダビデは砕かれた。
しかし、その罪は赦され、ダビデは失
敗から学んだ。罪を隠すなら、取り
繕わねばならず、更に罪の上塗りを
する。悔い改め、御霊に教えられて
行く人は、同じ失敗から守られる。
これは恵みだ。この謙遜がなければ、
後のダビデは無く、あの詩篇も無か
った。失敗したならやり直せばよい。
何度でもやり直す事ができる。主が
ナタンをあなたに遣わされたなら、あ
なたのナタンに耳を傾けよう。それは
神からであり、あなたへの慈しみだ。
・・・・・・・・・
主はナタンを遣わして下さる。それは
人ではなく主からだ。主の愛だ。愛と
いえば、ほんわか暖かムードを連想す
るが、主は厳しい愛で義の道に導いて
下さる。主の愛に何度守られて来た事
だろう。