2008年11月15日(土)

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」マタイ15:28

主の沈黙が出て来る。カナン人の女が娘を助けて欲しいと主に叫んだ。しかし、
主は一言も答えられなかった。助けを求めているに関わらずだ。

そこで、弟子たちが出て来て、女 がうるさくて仕方が無い、何とかして欲しい
と主に願った。弟子達の冷ややかな態度が加わる。

すると、主は、イスラエルの家に遣わされていると言われ、「ダビデの子」との
言葉は不適当であった。なぜなら、女は異邦人であり自分の立場をわきまえた。

それを理解して、今度は「ダビデの子」をはずして、「主よ」と願った。必死だ
ったに関わらず、小犬には、やれないとはっきり断られた。
非常に冷淡に見える。しかし、主の拒絶に会いながらも反発したり、怒ったり、
諦めるのでなく、とことんへりくだった。自らを「その通りです。小犬です」と
認めて。

私たちは祈りに力がある事を知っている。祈れば主は聞いて下さる。それゆえ必
死で祈り、どうしても聞いて欲しいとの強烈な願望は、いつしか自我と取って代
わる事がある。

何が何でも得たいものがあると、口では恵みと言うが、強烈な自己主張へと発展
して行く。得て当然、祝福されて当然の態度だ。祈り倒して得ようと。自分が神
の上に立ち、神や信仰が、自分の願いを叶える手段となってしまう。

時に、この誤りに陥ってしまう。この女性のへりくだりは、大きく教えられる。
どこまでもへりくだり、真っ直ぐに主は必ず良くして下さるという信仰、おこぼ
れは頂けると、主にしがみついて離れなかった。主はそれを立派な信仰と、喜ば
れた。
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彼女はへりくだり続けた。「その通りです」と認め、どこまでも主にしがみつい
た。彼女の信仰は試され、引き上げられ、堅くされた。私たちの信仰も堅くしよ
うと取り扱われる。今思い通りでないなら、へりくだろう。そして求め続けよう。