2008年12月16日(火)

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17



「事実(御言葉)」・「信仰」・「感覚」が山の上を歩いていた。
「信仰」は目の前の「御言葉」だけを見ているなら、どんどん前進できた。

後ろの「感覚」も順調について来た。ところが、「信仰」が前を進む「御言葉」
から目を離して、「感覚」を振り返った途端、「信仰」と「感覚」はもろとも、
谷底へ転落してしまった。

そして、「事実」だけは一向に関係なく、前に進んで行った。
信仰生活の正しい順序は、「御言葉」「信仰」「感覚」だ。感情はあくまでも、
御言葉と信仰の後について来るものだ。

しばしばこの順序を逆にする。「感覚」を一番に持って来て、「信仰」最後が
「御言葉」だ。すると、信仰の迷路に迷い込む。

感情に振り回されて、信仰生活が激しいアップダウンを繰り返す。
私達はこの世界で生きているために、感覚、五感に深く拠り頼んでいる。

それは必要な事で、五感で危険を察知しなければ、命を落としてしまう。
しかし、信仰は霊の事柄で、通常の五感では感知できない領域だ。信仰を五感で、
人間的領域でつかもうとするから、霊的事柄が全くわからない。

感じなければ信じない。信じようとしない。感じようと感じまいと関係なく、
御言葉を真実、事実として行く時、不思議だが感情がついて来る。
感覚を先に持って来て、信仰生活、混乱していないだろうか。
-----------------------------------
感覚、感情が先にくるなら御言葉をいくら蓄えても、いつも平行線。良い教えで終わってしまう。交わる所がない。御言葉・信仰・感覚、今日も覚えて行こう。