2009年05月15日(金)

「ほんとうに、自分の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした」Uコリント1:9




私たちは、なかなか自分の弱さを認められない。認めているつもりでも、全面無力など決して認めたくない。少しぐらいの力を残しておきたい。少しぐらい認めて欲しい。

徹底無力など余りにも惨めで認められない。なぜなら、人前で弱さを見せたくないし、人に自分の弱みを知られたくない、その事が証拠だ。もし、無力を認めていたなら、人前でもありのままおれるはずだ。

無力を認めたくない、拒否している事が問題で、そうであれば、神に頼る事ができない。
無力でない人が、神に頼ることは不可能だ。信仰とは神に頼ることだと、頭ではわかるのだが、頼る事はできない。

なぜならどこまでも自分を認めて欲しい、力を誇りたい、肉の自分がいるからだ。人は徹底無力になった時に初めて神に頼る。正直に自分の姿を見る時に、苦しみが真に恵みだとわかる。

自らをへりくだらせ、徹底的に無力であることを、認めさせてくれるのは苦しみしかない。
御霊が苦しみを通して、自らの無力を認めるようにさせて下さる。これは大きな恵みだ。

パウロは、非常に激しい耐えられないほどの圧迫を受け、命さえも危うくなり、そこで自分を拠り頼まず、神を真に拠り頼むようにされた。
無力を認めたくない者が、変えられるのは、恵み以外の何ものでもない。
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無力なら、祈り続け頼るしかない。祈りはするが実際は自力で動き回っていないだろうか。前から来るものを通して、自分の無力さ、弱さ、罪深さに気づいて行けますように。