2009年09月14日(月)

彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:2  

  

安息日に弟子達が、麦畑を通りがけに穂を摘んだと、主がパリサイ人から非難を受けられた後、安息日に会堂に入られた時のことだ。そこに片手のなえた人がいた。
パリサイ人の視線は、片手のなえた人にじっと注がれた。

しかし、それは主を陥れようと、主を訴えるためであった。何と冷淡な心だろう。手のなえた人を利用した。主を弾劾し、自分達を正しいと、正当化するための手段だ。

一片の憐れみも、同情もない。その手のなえた人が癒された、大いなるみわざを見ても、何の感動もなく、主を殺す相談を始めるのだ。他人事ではない。
形は違えど、「自分は正しい」に立つ時、自分もパリサイ人になっている。

そのような態度の原因を「その心のかたくななのを嘆き」と、心の頑なさによると言われた。彼らの心は感覚が無くなっていた。愛や憐れみや同情に無感覚だ。
それは主を抹殺しようとの計画にまで発展して行く。なぜここまで頑なになったのか。

心に生える苦い根を、抜く事をせず、はびこらせるままにし育て上げてしまった。あなたの心にも苦い根が巣くっていないか。憎しみや、妬みの根は放っておくとどんどん育ち、殺意になる。実際、彼らは妬みのゆえに主を十字架につけた。

一方主は、愛と憐れみ、同情心で一杯であった。同じ「じっと見」る目が何と対極にある事だろう。悔い改め、苦い根は即、根から抜き取って頂こう。はびこらせてはならない。
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自分は正しいと思う時こそ高ぶりに気づかず人を裁くことに躊躇しなくなる。恐ろしいことだ。心にざらつく思いを感じたら、よく見つめて主に告げて行こう。自分は間違っているかもしれない、の態度を忘れているかもしれない。