2009年10月15日(木)

「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ」ゼカリヤ2:13



肉が静まるとは、自分の弱さを認め、弱さの中に恵みが十分と、弱さを誇る人のことだ。へりくだった、心砕かれたたましいに、主が立ち上がって下さる。肉が、人間の力が、立ち上がるのでなく、自分の無力を認め、静まる時に、主が立ち上がられる。

様々な問題がある。経済的困窮、難しい対人関係、色々な苦しい悩みの中で、自らの無力を告白しよう。無力を認め、主に助けを求めるなら、主が立ち上がられる。問題を、素直に率直に主に告げて、主の助けを求めよう。思い煩いを主に明け渡し、喜びも悲しみも苦しみも、具体的に一つ一つ主に語り、感情も主にぶつけよう。

主は受け止めて下さる。そして、主に依存しよう。自分の力、自分の思い、自分の方法、自分の価値観に静まる時、それらに頼らない時、主が立ち上がって下さる。自分を下ろす時に、主が立ち上がられる。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである・・ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」

私が弱い時こそ、主が立ち上がって下さる。肉を十字架につけて行く時、主が立ち上がられる。信仰生活に、家庭に、教会に、職場に、自らの人生に、主に立ち上がっていただこう。
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自分を下ろした時「わたしはあなたのただ中に住む」と言われる主を認める。喜びや悲しみが来ても自分の感情が基準なら流され翻弄されるだけだ。永遠に続く揺るがない確信と平安は、主よ、私にはあなただけですと認めた時に来る。