2009年12月15日(火)

「『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』」創世記3:11



アダムはエバに、エバは蛇に、責任転嫁した話は有名だ。何と、人類が最初に罪を犯した時に発した言葉が、「この女が私にくれたので食べた」「くれた女が悪い」「この女のせいでこうなった」自分を正当化する、責任転嫁だった。

これは私たちの中に根深く潜む性質だ。あなたにもあるだろうか。人のせい、環境のせいにしていれば、自分を見なくて済む。自分に向き合うのは痛い、辛いことだ。自分の罪は見たくない。

しかし、自分に責任を取らないで、言い訳し、人のせい、状況のせいにしているなら、何一つ成長はない。そこから進む事がない。主を知ることもない。言い訳しないで、「その罪を犯したのは私です」と認める時、神の恵みが臨む。

赦しが与えられ、自分が変えられ、成長して行く。ある人は、辛い成育歴があった。父親がアル中で、子供の頃、ずっと家族に暴力を振るっていた。そんな父親をどうしても赦せず、心は父親への裁きと憎しみで苦しかった。

心はいつも牢獄にいて悶々だった。父親のせいで、父親が悪いから自分が苦しいのだと、ますます父親への憎悪を深めた。だが、神に出会った時、初めて目からうろこの大転換を見た。

自分が苦しいのは、父親のゆえでなく、父親を裁き憎む罪ゆえ、平安がなくて苦しいのだと。父親は全く関係なく、自分と神との問題なのだと。自分の問題と認め、悔い改めた時、父親への憎しみが消えた。
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見るべきものは自分の罪だ。自分の内にある罪を示され、しっかりと神様の前に一つ一つ認めていく時、不完全なままでも平安が来る。神様と自分の関係に言い訳はいらない。