2010年04月14日(水)

「あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことができない」ヨシュア7:13


 アイへの偵察隊が「二、三千人で大丈夫」と戻った。そこで三千人を戦いに出したが、さんざんな敗北だった。予想外の事実に、民の心はしなえ、水のようになった。勝利を疑わなかっただけに、大変なショックであり、動揺であった。

奇跡のヨルダン渡渉を経験し、エリコ城壁崩壊の大勝利を目の当たりにし、大いなる神が共におられる、その事がヨシュアの拠って立つところであり、敗北の事実自体が、それらをなし崩しにしてしまう事であった。

主の御名はどうなるのか。周囲の敵の前で、この敗北はどうなるのか。ヨシュアは、「なぜですか」とひれ伏し祈った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。しかるに「大いなる御名」こそが、この敗北を与えられた。

全能の神は、同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、聖さのゆえに、罪のあるところに働かれない。聖く無い所では、敗北の方が、神の栄光が現れる。妨げは神の側ではなく、民の側にあった。

神との間が正しければ、アイでも勝利していた。神は罪を示し出され、アカンの罪が発覚した。罪が取り除かれた時、再びアイに上り、神は完全勝利を与えられた。

罪は神との仕切りとなり、平安を失う。私たちには主の流された血潮がある。今すぐ主のもとへ行き、ことごとく告白しよう。主は完全な赦しを与え、解き放って下さる。心に平安が戻り、罪赦された喜びが溢れる。
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罪をそのままにして神様との深い交わりは出来ないから、喜びのない力ないクリスチャン生活になって行く。神様は常にその罪に気づくよう促される。告白し、赦された恵みに感謝し、再び力強く歩んでいこう。