2010年05月15日(土)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩編51:17

サタンはエデンで、エバを誘惑したが、突然、善悪の知識の木の実を食べろと言
ったのではない。最初は「・・食べてはならないと、神は、本当に言われたのか」と、
「言われたの?本当に?」と、疑いを起こさせるよう誘惑した。

サタンを拒否せず、対話したのが間違いだった。見事に罠にひっかかって行って
しまった。サタンの方が人間より遙かに知恵があり賢い。御言葉に立たないなら、
敗北は必至だ。

罪を犯してしまったアダムとエバは、裸であることを知り、恥ずかしく、いちじ
くの葉で腰のおおいを作った。私たちの生まれつきの善い性質も、自分でする善
行も、自分が、肉がおおういちじくの葉だ。

恐れて、神の御顔を避けて、身を隠した。罪の結果、神の前に、あるがままおれ
なくなり、隠れるようになった。アダムとエバ、互いの間も同様となった。罪を
隠し、互いの弱さを隠す。決して弱みを、人に知られなくない。

醜い部分、汚い部分、嫌な部分は神にも人にも隠し、自分でも見たくないのでふ
たをする。神は悔い改めに導こうとされたが、アダムもエバも、どこまでも自分
を正当化し、責任転嫁して行った。

罪を犯しているのに、自分は悪くない、相手が悪い、環境が悪い、そのせいで自
分はこうなった。自分は被害者。まさにこれが罪の結果だ。もし、これを自分の
中に見い出したなら、神の一番喜ばれる事は、悔い砕かれた心、悔い改めだ。心
に解放と喜びを下さる。平安にして下さる。

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自我は、自分の罪も弱さも、決して認めたくない。どこまでも自分は悪くない。
これがアダムの罪の結果であり、自分の内にある罪の性質だ。この解決のために、
主が十字架で裂かれなければならなかった。すでに十字架で解決されている。御
霊に素直に応答しよう。