2010年08月15日(日)

「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」ヨハネ2:23

群衆が主を信じて、追い回しているのは、主ご自身を求めではなかった。主がさ
れる奇跡を求めて、「パンを食べて満腹した」通りに、パンを求めて、後を追い
かけていた。自分の願望が、満たされたいがためであった。

私たちの信仰が、自分を軸に置くなら、自分の願いや欲望が満たされている間は、
つき従う。つまり、自分の思いと合っている間は良いが、思い通りにならない途
端、離れ去る事になる。

自分の願いが叶わなくなるや、失望し、つまずく。群衆がそうであり、ユダがそ
うだった。ユダは、主がローマ帝国をくつがえし、主の王国を築くと思い込んで
いた。それが主は十字架へと向かわれ、自分の思いと違った時に、主を捨てた。

私たちは、「何のために」、主に従っているのだろう。パンのため、祝福が欲し
い、自分の願望が満たされたいためだろうか。それなら、自分に都合の悪い事態
が起きた途端、従うことをやめる。軸が自分なので、自分にとって利益か不利益
かがすべてだ。

主は信頼できる信仰を探しておられ、信頼できる信仰に、ご自分を任せようとし
ておられる。つまり、主を自分の利得のために利用するのでなく、主が神である
ゆえに、従って行こうとしている人に、ご自身を現される。

まず、自分の内の深い自己中心に、気づきを与えて下さる。主を求めるようにさ
れ、御霊が導いて下さる。
その人は、どんなに自分に損になろうと、試練の中も、苦しい中も必ず主に従っ
て行く。何があっても、どんな時も、従って行く。

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何のために、主に従っているのだろう。自分の願いが満たされるためなら、別の
他の偶像でも良い事になる。自我の砕きを通して、自分の喜びだけの者を「神が
喜ばれること」を求める者へと変えて行って下さる。何と恵みだろう。