2011年02月12日(土)

「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」Tヨハネ4:20

それぞれの仲間内、志を同じくする者には、モットー、目標がある。私たちのモ
ットーとは何だろう。「イエス・キリストは主である」。この言葉は、いかなる
場合にも力を発揮する。

思い煩いで心が一杯になる時どうだろう。「イエス・キリストは主である」を見
つめ続けるなら、思い煩いは消え、信仰が湧く。失望と落ち込みが来た時「イエ
ス・キリストは主である」により引き上げられる。対人関係で悩みやトラブルが
生じた時、自我は強く、敵対心、憎しみ、恨み、怒りで悶々となる。

その時も「イエス・キリストは主である」で、自分から主に目を転ずる時、自己
軸から神に軸が転換される。神によって、御言葉によって事態を物事を見る目に
変えられる。自己中心の煮詰まりから解かれる。このギクシャクした対人関係、
あの種々の問題、それらの中で、どのように考え、行動して行けば、イエスを主
として行けるのか。

どうして行けば、主の栄光が現れるのか、どうすれば、主が喜ばれるのか、そこ
に立つ時、今まで決して見なかったものが見えて来る。イエスを主として行く時、
聖霊はそこで働かれる。具体的になすべき事が示され、導かれる。

兄弟に対して、疑い、不信感を抱く時、サタンと肉の思うがままにされてはなら
ない。そこで「イエスは・キリストは主である」に立とう。自分の自我に気づか
され、プライド、妬み、自己防衛、自己憐憫、自分の欲に気づかされ、主と兄弟
と一つ心にされる。

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「私たちの兄弟たちの告発者」サタンは絶えず、周囲の人々を訴え、裁かせよう
とする。肉はサタンの誘惑に乗り、人を憎み、妬み、平安を失ってしまう。自分
視点を、主に持って行く時、気づきが与えられる。主に祈り頼ることができ、主
の喜ばれる選択に目が行く。