2011年05月15日(日)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6

男だけで五千人、女子供を入れると倍にもなる、大勢の人々を前に、主はピリポ
を試された。「食べる物がない、どうしようか」と。ピリポは、手持ちと目の前
の必要を計算をした。答えは「ノー・不可能」だった。

アンデレも、主は何かして下さると思ったから、何か持っている人を探し出した。
しかし、こんなに大勢に、この小さな弁当では、何になろう。焼け石に水だ。だ
めだと思う。大勢の群衆に、食べ物が無い、手持ちも無い。しかし、このような
状況で、主はすでに「しようとしている事」があられた。

これは何と心強い事だろう。あなたが今、このような状況なら、主はすでに方策
を持っておられる。しようとする事があられる。私たちには「方策」ではなく、
「信仰」を求めておられる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできませ
ん」主が喜ばれるのは「信仰」だ。信仰を献げよう。

そして、「小さな」ものを用いて下さる。五つのパンと「小さい」魚を二匹だ。
今、新しい歩みに招かれているか。新しい環境、仕事、奉仕・・自分は小さな者だ
と思うなら、主はその「小さな」者をこそ用いられる。

「イエスはパンを取り、小さい魚も同じようにして」主の手に握られる時、大き
な祝福として、主が用いられる。人々は満腹する。一番肝心な事は、その「小さ
な」ものが主の手にあるかどうかだ。

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しばしば、こんな小さなものが何になろうと思う。大きな必要に対して、焼け石
に水だ。あっても無くても同じように感じてしまう。しかし、そうではない。小
さなものを、主が用いて、大きなみわざをされる。主の手の中にある事が肝心だ。